ジュセップ・ファブリー

  歴史, , 人物

油川でイワシの缶詰工場&トマト栽培発祥地

今から100年前の大正5年(1916 年)の12月、イタリア人ジュセップ・ファブリーが油川に来ました。


青年時代にはイタリア近衛騎兵の下士官を勤め、日本に来たのは50歳になってからです。
初めは、神戸で外国映画のセールスをしていました。(1914年)
その頃、日本近海では故郷サルジニアに似てどこでもおいしいイワシ(サージン)が捕れることに
着目し、その事業化を思い立ちました。
先ず東京高等水産所を尋ね、青森県陸奥湾内で良質のイワシが無尽蔵に捕れることを教えられました。
青森県庁に来て当時の川村竹治知事と会い、むつ湾産のイワシを使ってこの地に
本格的な缶詰工場を建設し生産に乗り出したいと相談したところ、
知事は油川村長西田林八郎を紹介してくれました。
西田村長は、缶詰工場が村に建てば、村が将来の発展につながると思い、
イタリア人ジュセップ•ファブリーが油川に来ることになったのです。

目的はイワシの缶詰を作ることでした。
当初は住宅で少しずつ生産していましたが、2年後の大正7年(1918 年)約1ヘクタールの土地に、
木造の工場とレンガ造りの事務所兼住宅を建て、イワシ・マグロなどの缶詰を生産したのです。
製品は日本国内に出荷され、また母国のイタリアや東南アジア方面にも輸出しました。

ファブリーは、食べ物を自給するため寺内野(現油川中学校付近)に農場と牧場を開きました。
牧場で牛、馬、ニワトリなどの家畜を飼い、畑には、当時珍しいケチャップやジュースを作るための
トマト、ジャガイモ、グリンピースなどを植えました。
トマトが、一般の農家で栽培されるようになったのは昭和に入ってからで、
油川ではそれより前に栽培されていましたから、油川がトマトの発祥地と言われています。


ファブリーの缶詰工場は、青森県内外国企業誘致の先駆けでした。
ファブリーの工場建設費用は、今のお金で6億円ぐらいで、
神戸のオンベール商会から融資されたものです。

しかし、生産が始まった3ヶ月後の大正7年(1918)7月4日、
ファブリーは当時全国で流行していた悪性感冒を患い帰らぬ人となり、工場は閉鎖となりました。
働いていた人は解雇され、建物の管理は村役場に一任されました。

日本には全く身寄りがいないファブリーのため、葬式は村役場がやることにし、
青森からカトリックの神父さんを呼んで寺内野墓地に丁重に埋葬しました。
後、昭和2年(1927)の十年忌法要の時は、
ボイラーの上に十字架を立てたユニークなデザインの大きな墓が建てられました。
昭和43年には、かつて工場や農場で働いた人達や、工場誘致に世話をしてあげた方たちが集まり、
明誓寺で五十年忌法要がしめやかに営まれました。
墓は昭和7年(1932)寺内野が飛行場になるので明誓寺に移されていたのです。

ジュセップ•ファブリーの肖像
ジュセップ•ファブリーの缶詰工場
明誓寺にあるお墓

参照:青森市役所 交流推進課 ぷらっと通信第15号より
元気町あぶらかわ物産館 木村慎一より