千人塚 天明飢饉供養塔

  歴史

旧奥州街道104番目の宿場・油川宿入口付近に集められている寺社の最後が浄満寺
油川宿中心部に近いにところにあり、津軽半島で最古の寺と言われています。

浄満寺境内には、青森湊を開いた森山弥七郎の供養塔や、本堂背後の高台は千人塚と呼ばれ、天明3年(1783年)の大飢饉で餓死した人々を埋葬しています。油川周辺では住民の内約300人が餓死し、流浪の末当地で亡くなった人約400人が道端で息絶えたを事を受け当時の代官と浄満寺の住職が相談の上、境内の空き地に大きな穴を掘りそれらの死体を埋め供養し千人塚と名付けたと伝えられています。津軽藩全体で約8万2千人が餓死したといわれ、油川とその隣の後潟地区と合わせ、全住民1万8600余人の3分の2が死亡したといわれています。