奥瀬家五輪塔

  歴史

「異聞記」によると「油川へは南部奥瀬判九郎下り、外ヶ浜の代官となり、その子善九郎船水讃岐なり」と記されていることから、奥瀬家が油川城の城主だった事がうかがえます。

奥瀬家の祖は小笠原安芸の後裔である奥瀬安芸定直とされ、南部光行に従い建久2年に甲斐から糠部郡に下向し、三上家、桜庭家、福士家と共に四天王に数えられました。

半九郎、善九郎父子はその奥瀬家の一族と考えられ、要衝である油川の地に配されたと思われます。

天正13年に津軽統一と本家筋の南部家からの独立を画策する大浦為信の侵攻を受け、大きな抵抗が出来ないまま善九郎は戦線を離脱し田名部に後退を余儀なくされ、油川城は落城しています。

油川にある浄満寺は奥瀬家の菩提寺で、境内には紆余曲折を経て奥瀬家所縁の墓碑(五輪塔4基)が遷されています。