旧青森飛行場(油川の飛行場)

  歴史

昭和8年(1933)3月30日竣工

青森市羽白付近 飛行場道路踏切

青森市大字羽白字富田・字池上・字沢田・大字西田沢の一帯、
青森駅からほんの数キロ陸奥湾に面した所に、かつて青森飛行場がありました。

昭和初期に東北地方を襲った大凶作に対し、
政府による農民救済土木事業の一環として建設された飛行場です。
東京(羽田)-札幌間の民間定期航空路の中継地としての役割を見込み、
昭和8年開場しましたが、定期便の就航はなかなか実現せず、
代わりに開場当初から軍用機等の飛来がありました。

地元念願の民間定期便運航がようやく始まったのは、開場から4年後の昭和12年のこと。
当時国鉄で最速13時間だった東京-青森間を僅か4時間で結んだのだそうです。
日本航空輸送株式会社の東京-仙台-青森-札幌定期便が設けられました。

民間定期航空は昭和15年7月に停止され、青森飛行場は帝国陸軍により接収、陸軍飛行場となりました。
爆撃演習地・航法演習地として使用されたようです。
また、飛行場の拡張工事は本土防空作戦の一環として昭和18年頃までには開始され、
終戦まで市民・学徒らが動員されています。

「旧青森飛行場の歴史を伝える会」の記録映像


陸軍青森航空本部のもと、作戦物資の集積・隠匿が行なわれましたが、
昭和20年夏の空襲時には一切使用されることなく、戦後は飛行場自体が廃止され、
進駐軍により接収され一部が飛行場内に駐留しました。


そして飛行場内(現在の、油川市民センター周辺)に楕円形の馬場を造り、
昭和21年(1946)10月5日、6日、7日、12日、13日の5日間、
青森競馬倶楽部主催(青森進駐軍後援)により競馬が開催されました。
昭和22年(1947)引揚者の入植地となり、多くが田畑に利用されました。
その後団地の造成、宅地化など、現在の油川中学校や住宅地などとなっています。

門標石(現在:油川市民センター敷地内)

『旧青森飛行場で実際に使用していた格納庫(農協倉庫として使用)を、2004年7月に解体される際に鉄骨の一部を譲り受け、この度、飛行場の歴史を後世に伝えるべく、記念碑として保存することとしました。貫通銃傷部は戦時の際の痕跡と思われます。併せて、飛行場正門の門柱として実際に使われていた門標石も篤志企業により保存されていたものをご厚意により寄贈移設させていただいたものです。2013年9月21日 旧青森飛行場の歴史を伝える会』

沿革

1932年09月 3候補地から油川町に民間飛行場建設決定
    10月 着工
    11月 起工式
1933年03月 竣工 滑走帯:780mx700m芝
    06月 竣工式 その後陸軍機等により使用される
1937年04月 大日本航空輸送により、東京-仙台-青森-札幌間定期便開設
1940年07月 仏印進駐後、航空機ひっ迫のため停止命令。定期便廃止
       大日本飛行協会青森支部の青森県第一滑空訓練場として使用されるようになる
    10月 この頃青森縣立商業學校滑空部が滑空訓練に使用
1941年08月 陸軍転用工事開始
1945年07月 空襲
    08月 空襲 機能喪失
    09月 残存航空機による主要都市間の連絡飛行の許可(9/14~10/10)。米軍接収
    09月 14日~10月9日まで緑十字飛行
       16日 第8軍ゼネラル大将、青森視察
       18日 調査班、青森に来る
   10月  10日 帝国航空便(翌年2月6日まで)
1947年    引揚者の入植地となる

青森飛行場については、詳細を丁寧に記されているサイトがございますので是非ご覧ください
旧青森飛行場の歴史と現存する遺構 稲垣森太

≪記事/動画/写真出典≫
Blog:空港探索・2
Blog:競馬場アクセスガイド
Youtube:gyamitr0vel