菊谷栄

  人物

きくやさかえ(1902~1937)

劇作家。エノケン(榎本健一)の新カジノ、ついでピエル・ブリアント(P・B)に参加、
レビュー脚本、まげもの、与太者および六大学シリーズで大当たりした。
<生没> 1902(明治35)年11月26日 ~ 1937(昭和12)年11月9日
<代表作> 戯曲「パリの与太者」「民謡六大学」 「最後の伝令」
<青森との関わり> 東津軽郡油川村大浜(現青森市)生まれ。

本名は栄蔵。
明治42年油川尋常小学校入学。
大正4年青森中学校入学。
大正10年上京、川端画塾に通いながら日本大学文学科(芸術学)入学。
同大学在学中、多くの戯曲を習作、各種の演劇を見る。
卒論は「歌舞伎と動物」。この頃二科会、帝展に入選せず懐疑的となる。


昭和4年淡谷、竹内らの青森劇研究会の舞台を手伝う。
在京の学生らの秋田雨雀を中心とした研究会「日曜会」に参加。
翌年エノケンの新カジノフォリーに舞台装置で参加、
その年カジノの解散後榎本健一と共にプペ・ダンサントに参加。
同文芸部にサトウハチロー、菊田一夫がいた。


昭和6年郷里の文芸誌「座標」に随筆「朗らかなインチキ味」を発表。
11月プペ・ダンサント解散後、ピエール・ブリリアント(P・B)がオペラ館で旗揚げ、それに参加。
従来、検閲対策として劇団員佐藤文雄の名を借りていたが、初めて菊谷栄の筆名を使い、
専属披露公演で「リオリタ」を創作、評判をとった。


昭和9年P・Bが新宿に進出、「坂本龍馬」の他「パリの与太者」
「ピカデリーの与太者」など与太者シリーズを発表。
昭和10年P・Bが大阪に進出、さらに「ヤンキー若様」等の作品を次々に発表、
「民謡六大学」が大ヒットし、1カ月半の長期興行となった。
昭和13年五所川原の「西北新報」に「エノケンと僕」を連載。
脚本「南は大空」・「弥次喜多、奥羽街道」などを上演、
また、大学シリーズ「流行歌六大学」が大好評を博する。
昭和12年「水戸黄門漫遊記」「アルセーヌ・ルパン」「ジャズ六大学」を発表したが、
7月黄疸で倒れ休養。


昭和12年 (1937年) 、盧溝橋事件により日中戦争勃発。
同年9月に招集を受け、青森の歩兵第五連隊に入隊。
菊谷が乗った軍用列車が品川を通過するとの報を受けた榎本は、
上演中の舞台を途中で止め、一座で会いに行き戦地に送り出す。
11月9日中国南和で戦闘中頭部を撃ち抜かれ戦死。34年の生涯を終える。
劇作家としての活動期間はわずか6年。
劇団は浅草の宗圓寺でジャズ葬を行う。
遺骨は故郷油川の明誓寺に埋葬される。
12月雑誌「新喜劇」が追悼号を刊行。

昭和17年 (1942年) 夏、エノケン劇団が菊谷栄追善公演のため青森に訪れる。
エノケンは燕尾服とシルクハットの礼装で明誓寺の墓に行き、伏して泣く。

昭和43年 (1968年) 9月、エノケンは青森のアマチュア劇団が上演する菊谷栄伝の
舞台に駆けつけ、泣きながら終演の挨拶をする。
明誓寺に訪れ、墓前に自身の紫綬褒章を供える。

昭和44年帝国劇場で、菊田一夫作「浅草交響楽」に、
栄の作品「最後の伝令」が劇中劇の形で挿入される。

菊谷栄文学碑

平成10年(1998)の建立。青森市油川大浜橋西側生家跡地。
碑文~春の日暮れまで、花の散るまで、日傘も二人、唄も二人で~は、菊谷の作品小歌劇『男性№1』の一節。

青森県